1995.1.17
25年前の朝、そのことを白馬の宿舎で早起きをして知りました。17歳の冬、修学旅行先でのことでした。無論、揺れ起こされて知ったわけではなく、胸騒ぎがしたからなのか、部屋のテレビを付けて報道で知りました。間接的に、知りました。
25年前の今日、ここにいなかったことは、直接的な経験のないことは、建築士として欠落しているのではないか、とさえ思い詰めることもあります。が、その分、丈夫な家にはこだわってつくっているし、今ここにいるのも、当時ここにいなかったからかもしれません。
2020.1.17
末弟が、Facebookで今日の日のことを綴っていしました。弟が今日の日に示した手記を見て、初めて知った事実もあったりしました。偶然の連続で、今の日々が繋がっているのもよくわかりました。
そして、私たちの仕事の本質がここにあるような気がするのです。手前みそですが、転載します。
…
25年前の今日、ぼくはまだ小3で、家に爆弾が落ちたみたいな音がしたと思ったら全身がベッドから宙に浮き、重いタンスが倒れてきて粉々に割れた窓ガラスが降ってきて、その中で父は全身を覆いながら僕を抱きしめて守ってくれました。いろいろ忘れちゃうんだけど、その時の痛いくらいの力だけは覚えてる。
いつもとはたまたま反対側からコタツに入っていた母は、嫁入りダンスにつぶされずにすみました。受験のため朝早くからリビングで勉強していた兄は、ベッドの近くの飾り棚に置いてあった陶器やガラスで傷つけられずにすみました。姿の見えない母と兄に、父が「生きてるかー」と大声で叫んでいました。
真っ暗で怖くて、床は割れた食器まみれで痛くてやっとの思いで玄関にいったらへしゃげて開かなくて、来た道を戻って勝手口にいったら引き戸は吹っ飛んでいて外に出れました。振り返ったら、ひしゃげた家が見えました。安心したからか怖さを実感したからか、母に抱っこされながら僕は大声で泣きました。
震える声で「おうちが壊れる」と言いました。めちゃくちゃ寒くて、たぶん父はもう一回家の中に入って、上着とか最低限必要なものを探してきました。当日の記憶はそこまで。避難所ができるのが遅かったのか満員だったのかはわかりませんが僕は頑丈なダイニングテーブルの下で2.3日寝かされていました。
うちは工務店だったので、電話がつながった瞬間ものすごい勢いで鳴り出し、母は電話に出ずっぱり。父と兄は現場へ。僕は一人テーブルの下でジャンプ読んでいました。ごはんは炊飯器に残ってた白米と、近くのローソンがくれたレトルトハンバーグをカセットコンロに泥水を入れ沸かし、温めて食べました。
僕は4兄弟の末っ子で、三男は現場に出すぎて熱を出しました。その頃次男が修学旅行から帰ってきてバトンタッチ。次男は帰ったら家に張り紙があってびっくりしたでしょう。当時は携帯もないし学校とも連絡がつかなかったから「事務所で寝泊まりしています」と玄関に貼り、工務店のビルへ避難しました。
それから少し経って、京都に下宿していた長男が真冬の道をバイクで、阪神高速は潰れてたので山側の道を通って命がけで帰ってきてくれました。積み荷には大量の食料が積んであってヒーローに見えました。水は近くに井戸水を汲める寺があったので大丈夫でしたが食べ物には困っていたので本当に嬉しかった。
それから父と兄3人でひたすら屋根のブルーシート貼り。祖父はもう70を越えていましたが施主さんの家を見てまわりました。いつもなら電車で15分でいける神戸でしたが動いていない。漁師に船を出してもらって向かいました。小3だった僕はできることがないのが悔しくて、砂袋をつくる手伝いをしました。
父が自分の家の片付けにとりかかったのはそれから半年後くらいだったと思います。それまではずっと工務店が入っているビルの一室で避難生活をしていました。のちのち当時のことを聞くと父は言っていました。「死ぬほど働いたけど、代金はほとんどもらえんかったなあ!」ガハハと大声で笑っていました。
…
そんな弟は今、地元明石で出版社を興しました。
「write」「right」「light」。
書く力で、まっすぐに、照らす
3つのライトでそのこころを照らしたいという気持ちを掲げて、「ライツ社」と名乗っています。